2013年7月3日水曜日

鹿背山の郷蔵 移築


時は江戸時代、文化7歳(1810年)京都府南部、奈良と隣接する
木津町鹿背山にて

庄屋 安左衛門、 年寄 冶兵衛、 同 善兵衛
庄屋 惣右衛門、 年寄 利右衛門、 同 清蔵

大工棟梁 小仲平右衛門、助 藤右衛門、弟子 喜助、同 庄 

によりこの郷蔵が建てられたと棟札に記されてあった。

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相楽郡鹿背山村は江戸時代、一条領と幕府領とに分かれており、
天保5年の山城壱国惣高集帳によれば、村高は
一条領288石余、 幕府領219石余の合計508石余りであった。

この郷蔵は文化7年に建てられたことが棟札より分かるが
古くは江戸時代初期の享保2年(1717年)には「郷蔵屋敷」の存在が
鹿背山高分帳に記されている。

この郷蔵の建設に当たっては庄屋2名、年寄4名の複数の領主が記され
幕府領、一条領のそれぞれの庄屋、年寄が関与していたのである。

このことはつまり、郷蔵が両方の領主の年貢米を保管するために建てられたことを意味する。
この建物はお互いに行き来できない二つの部屋からなりそれぞれに扉がついているのは
領主の米が混じってしまうことを避けるためだったと思われる。

各地の郷蔵は、明治時代になると年貢米の保管と言う機能が不要になったため、
大多数は取り壊されたり、改造されたりして現在ではほとんど姿を消している。
当地区の郷蔵は、その由緒が明らかであり、現状から当時のはたらきを
うかがうこともできる、貴重なものと評価できる。

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今から20年程前に実はこの郷蔵も姿を消そうとしていた。

隣接してあった村の分校の児童が壁を利用しボール遊びで損傷がひどかったためや、
公民館の用地とするために取り壊されることになったのだ。