2015年4月28日火曜日

ネパール震災の地域 ヒマラヤ山脈の北と南

今回のネパールでの震災の地域はどういうところなのか、そしてどういう地形になっているのかと言うことは手に取るように分かる。なぜなら1987年にそこを自転車で通って来たからだ。上海からチベットを通りヒマラヤを超えてカトマンズ、ポカラ、ブッダガヤ、ベナレス、カルカッタまで自転車とともに旅行をしてきた。

ネパールの首都カトマンズから第二の都市ポカラ間に震源地がある。この間は東西の道に当たり比較的標高の低い場所になる、山すそのしわを走るように小さなアップダウンの繰り返しでポカラに付く。自転車ではこの間に一泊しただけだったが横をつなぐ幹線道路の数が少ないため今は動けない状態にちかい思う。第二の都市ポカラはとっても綺麗な街で湖とアンナプルナの山が見えここから登山やトレッキングをスタートする最高の休息場所だった。

カトマンズに居たときには、エベレストのベースキャンプにも行ってきた。2週間ほどの工程でトレッキンが出来る。山に入るには登山の許可証が要る、これがネパールの大きな外貨を得る手段になるのだ。このトレッキングコースには日本人が経営する宿もあった。道中にはイェティー雪男の頭があるお寺には植村直美の署名が有った。ベースキャンプの地形は毎年変わる。それはベースキャンプは氷河の上にあるので形を変えるのだ。エベレスト・ベースキャンプのひとつ手前の宿がゴラクシップという「カラスの墓場」という地点にある小屋だった。しかしここには大きなヒマラヤのカラスが住み着いている。それはなぜかと言うと登山隊が捨てる残飯を食べに来るからなのだ。

国境は人間が作ったものでありで動物の生息域などには境が無いと言われているがここのネパールと中国の国境は自然、人間、動物と環境が大きく変わる。下の写真は1987年に自転車でチベットからネパールに入るところの写真である、簡単な説明を付けてみてみる。


中国とネパール間の道を中陀行路とも言う。ここは最近ニュースでもよく見る中国との国境の北側にあたるヒマラヤ山脈の北側になる、チベットの最後の峠近くの高地です。このあたりのヒマラヤの北側は海抜が4000メートルを超え森林も草も生えていない酸素の少ないところになる。たまに行路には人がいるがほとんどいない人口密度の極端に少ない地域になる。原住民のチベッタンはヤクの毛で作った靴から服をまとっていた乾燥した地域で年中風呂に入らない。



先に見える雪の山の間がネパールへの最後の5000メートルを越える峠になる。車も無く人にも会わずに雪前の11月に峠まで走った。峠を越えてから分かったことがここが最後の高地であり、あの山向こうは急な斜面になりその先はべったーと海抜の低いインドの大地があるのだ。

話では聞くがこれがインドのプレートがユーラシア大陸に当たり盛り上がって出来たのがヒマラヤ山脈でありここのチベットの高地になるのだ。

しかしこのチベットの高地は青海省から徐々に続きづっと平均海抜3500~4000メートルちかい所をずっと走ってきたがこの先の地理的環境の違いには驚いた。



ここがチベット最後の海抜5000メートルを超える峠になる。5000メートル越えは青海省から3つか4つあった。忘れないのは最初5000メートル超えの青海省のパエンカラサンと言う峠だった。そのときは峠近くで頭が痛く自転車が押せなくなりトラックに載せてもらい近くの小屋まで連れて行ってもらった。それが始めての高山病だった。そこからずっとラサを通りこのチベットの高地を走ってきたがこの大地がすべてがインドのプレーたが押し上げた物だったのかと思うと。言葉には表せないほどの大きな時間と力があり、人間の存在なんてちっぽけなものに感じられる。チベットでは峠には必ずこの小旗にお経の書かれたタルチョがある。


ここがヒマラヤ山脈の下り坂、このとき日が暮れになり気温が下がる。水は凍りマイナス10度くらいではないかと思う。雪が降る前の11月にこの峠を越えることが出来た。


峠を越えてから日がくれまでに人が住む民家があったので泊めさせてもらう。おじさんと同じ部屋で火をたき料理をして休む。このあたりの建築物はこの写真のように石組みで建具枠を付けて作る。エベレストベースキャンプへ行く途中に建築現場があったがこの様に石を積み上げてゆき建具の木枠をはめ込んでいく形で作っていた。極端に木の入手が難しいところの建て方だった。


中国からネパールの国境にむけてヒマラヤ山脈をひたすら下る。周りに見えるや万年雪の山は標高が6000メートル以上だろうがそんなに高く見えない。

中国国境手前の宿場町、ニャラムに一泊して中国を出国した。当時は中国が外国人旅行者に解放されて間が無いので外国人には専用の通貨があった。実際には現地の人民元を闇で交換して使っていたが。何しろここまでに2回公安当局に不法旅行としてつかっまっていたので、出国時に自転車の没収がないようにかなり気をつけて出国したのを覚えている。写真の人のようにかなりの人がこのころは人民服を着ていた。


中国の国境を越えてネパールの入国審査のできるカスタムの小屋まで無国籍の地帯があった。当時はその地帯は両国どちらも手を付けず土砂崩れのままで寸断されていてネパール人のポーターに荷物を担いでもらいネパールに入った。今はトラックも行き来できるラサとカトマンズをつなぐ主要な行路になっているのは間違いない。どんどん下ると森林が見えてくる、温度も上がり酸素が増えてくる。


ネパール国境までの下り道腹にククリというナイフをさしたネパール人にあう。中国の共産国を出るとほっとしたのを覚えている。人民服の公安局員にはかなり気を使っていたのだろう。ここからどんどんくだり海抜600メートルという橋があった。気が付くとそこではセミの声が聞こえていた、そして熱くなりTシャツになったのを覚えている。

ヒマラヤの最後の5000メートルを超える峠から海抜600メートルのセミの聞こえる橋までずっと下り坂だった。国境が無ければ充分一日で下ることが出来る。ここからは平坦なインド大陸がべたーと広がるのだ。ここで驚くことはヒマラヤを境にチベットの平均海抜4000メートル弱の北側と海抜の低いインドの大地が広がる南側とでは大きく環境が変わる。これはまさにインドのプレートがユーラシあ大陸のプレートの下に入り込みユーラシアプレートが盛り上がって出来たのがヒマラヤ山脈ででありチベットの高地になることがはっきりと分かる。現にヒマラヤではアンモナイトなど海の化石が発見される。ネパールの地形は北側の国境にはヒマラヤ山脈の壁が有りカトマンズあたりの中ほどから南側は低いインドの大地がつずくのだ。ヒマラヤ山脈の標高はいまも少しずつ上がっている。今回の地震では大きな被害を受けているが地球創生からの長い年月で考えると起こりうるところで起こった地震であり仕方無い様にも思える。ネパールの北側はヒマラヤからの雪解け水が流れる谷が有り縦に道はあるが横には道が少ない。言ってみると内陸ののリアス式海岸のようで救助にはかなり入りにくい場所になる。この度の震災ではかなり今まで受け継がれてきた人の営みが破壊されたがこのような地域の人たちには震災に強い人間の底力があるはずだ。ネパールの人は日本人に似たところが多くある。地形の関係で多くの民族が存在するがネーパール人は顔も日本人に似ている、そして言葉も多く似ているものがあったのを覚えている。また力強く生活をとり戻してもらいたい。






2015年2月7日土曜日

近江富士花緑公園内ウッディールームの活性化とヴォーリズ探索


木の仕事の会からの案内で滋賀県湖南地域 野洲市にある近江富士花緑公園内のウッディールームの活性化と有効活用について相談があり直接担当者の方たちと話し合うことになり現場を見に行った。何故この地域の木工施設に引かれて話を聞きに行ったかと言うとひとつに近江八幡に近いからだった。近江八幡にはかねてから訪れたかったヴォーリズの建築物が多くあるからだ。この相談の話がメールされた時に漠然となにかヴォーリズの仕事にかかわることが出来ればと思ったのがきっかけだった。ウッディールームの現状を聞き僕なりの提案をしてきた。それは現在使用されている針葉樹の間伐材の利用から近隣で伐採された広葉樹への利用に変えることと利用者の対象の幅を広げるために家具を作ると言うことだった。そのことについてはこれから踏み込んだ進展があればまたブログでお知らせすることになると思います。

話し合いのあと午後から始めての近江八幡ヴォーリズ探索をすることにした。予定も無く場所もしらべづ取り合えず近江八幡へ向かった。日牟禮八幡宮(ひむろはちまぐう)の鳥居の前の白雲館に行くと案内があると聞きそこでガイドブックを購入した。この日はくまなく観るつもりは無く関係者の方と話が出来たり建物がひとつでも入れたらと思っていたが結局そういうことは出来ず仕舞いだった。しかし外観だけでも何棟か見ることができた。


最初に見たのが細い路地中の角にあったミッションダブルハウスだったレンガの塀、煙突、エントランスのポーチ、ダブルハング・ウィンドウとテクスチャーのウォール、一見アパートのようにも思えたが一番手前にありさわる事の出来た門扉の金具を見てああこれはヴォーリズだと分かった。彼は多くの建築用金物を輸入していたからだ。そして歩いてすぐのところにウォーターハウス記念館と吉田邸が有ったが入れない。しかしここでも門扉を見るだけでも充分に楽しむことが出来た。






白雲館近くにある旧八幡郵便局舎、ミッションスタイルの特徴的なパラペットルーフが正面のファサードにある。このミッションスタイルとはラテン系の地域の協会などの洋式でメディトレニアン地中海洋式またはスパニッシュスタイルの中に分類される洋式です。ちょっとパンフレットが写ってしまった。窓を覗くとおっと!面白いシェイプのテーブルがありました。ここでもまたヴォーリズやなぁと感心する。




そこから少し歩いて晩年過ごされていたと言うヴォーリズ記念館へ行った。何棟か見ていると煙突、チムニーのキャップが見えてくるとこれだと分かる様になる。コロニアルスタイルとも書かれていたが焼き杉のサイディングと入母屋の屋根はどこか日本的な要素が多いような感じのする外観だった。しかしここでも門扉は圧倒的な存在感を表していた。凹凸のあるブリックの使い方と帯兆番にハンドル。おっとこのハンドルは吉田邸と同じものだね100年のヴォーリズですね。





そして最後に少し離れたヴォーリズ記念病院にあるツッカーハウスを見に行った。大きいねと思ったが西海岸のパロスバーデスあたりでは普通の家屋の大きさでもある。なにか寂しいなと思ったら正面の切妻、ゲイブルのエンドが取れているからだと思う裏面には破風のエンドが付いていた。一見だダブルハングの窓のようだが引き戸式だったアルミサッシの建具に変えられていたのはとても寂しかった。俺やったら同じものつくれるのになぁと思いながら見ていた。100年の家屋とは確かに老朽化するがアメリカでは普通に不動産で今も取引されている。僕も実際に西海岸の港サンペドロでは1904年に建てられたヴィクトリアンスタイルのクイーンアンという形の家に住んでいた。それはポーチにコラム柱、切妻のうろこ壁、フリーズにサイディング、正面にはサンルームのデン、バックヤードからは地下室のセラーの扉が付いていた。不動産のオーナーは変わりその都度、色が変えられてゆく僕の時も自分で色を変えたりした。東海岸では200年以上のコロニアルの家が今も使われている。それらの家は文化財で保護されているのではなく所有者がメンテナンスして残ってきているのだ。イギリスあたりの石の家は500年と言うから驚きである。アメリカの家を軽視する日本人の方がいるが実際にはアメリカの家のほうが永く使ってられます。サンフランシスコもそうやしそ、だから僕はこういうアメリカの家が好きなのです。ヴォーリズが日本に来て日本に適したアメリカの建築物を作ってきたことは今の私たちの利用できるアイデアがいっぱいあるはずです。それを知りたくて今回ここまで来ましたがまたの機会を期待してこの日はあっさりと帰る事にしました。いつかヴォーリズ建築の修復にも参加できればいいな思っています。







2015年1月30日金曜日

東大寺 お水取りの準備




東大寺の童子というと「お水取り」の補佐をする方たちで連行衆という行者のお世話をされています。今年は今修復している蔵の青木さんのとろにも竹を取りに来られた。この竹は松明の真などに使われるとのことだった。青木さんも誇らしげに動いておられた。春は近いね。

2015年1月27日火曜日

次男の初スキー 奈良県 洞川スキー場(どろがわ)


次男がスキーをやってみたいというので奈良県内唯一のスキー場である天川村にあ洞川スキー場に行ってきた。ウエアーだけ準備してスキーはレンタルした。数日前は雨だったらしいが一週間ほど前の雪がブッシュもなく前面真っ白な状態で残っていた。洞川温泉街まではほとんど雪はなかったがスキー場付近の林道に入るといきなり雪が残っていた。この地帯は雪が残る所でスキー場に選ばれたのだろう。職員さんいわく元々は村の人が楽しむために作ったゲレンデだったらしい。子供が小さい頃はヨセミテのスキー場などに連れて行ってたがあの頃はそりだったので次男はスキーの経験がなかった。僕は20代前後には毎年野沢に行っていてたので普通に滑れる。リフトは二箇所あり、手前は50メーターほどのそりも引っ張ってもらえる超初心者エリアのリフトと、ゲレンデが折れ曲がり250メートルほどのロングリフトがある。共にワイヤー式の引っ張っていってもらえるもの、Tバー式のものではなくバーを背中や腰に当てて押して行ってもらえるものだった。このリフトはちょっとなれないと難しいが職員さんがその都度止めてくれるので問題はない。9時から4時20分まで動いているが数少ない職員さんで運営しているため昼休みの間は止まっている。この日の昼前後は駐車場がいっぱいになる程の状態だったがリフトを使わずそりや雪遊びをする家族も多いのでリフトで待つことはなかった。午後の3時以降あたりは貸切状態で申し訳ない気持ちになるほどだった。ここは初心者にはもってこいのコースでこぶもなく傾斜も適当に良い。おかげでスキー初体験の次男も午後にはまあまあ滑れるようになっていた。帰りの車では「指導者が良かったからやな」と言うと、違う「運動神経がええからや」とそんな話をして楽しい一日が過ごせた。

まったく知らなかったが洞川は陀羅尼助丸の町で温泉街ではさまざまな店のパッケージに包まれた陀羅尼助丸が売られていた。そしてここは女人禁制の霊山で知られる大峰山の宿場町でもありシーズンになると多くの修験道者が来る所だった。父が亡くなった後アルバム写真の中に岩場で逆さになった写真を見た事を思い出した、あれはここだったのだ。帰りの温泉の中で父の足跡を見たような気持ちにもなった。



2015年1月15日木曜日

郷蔵の作業 窓と土 hunging window

 



2015年明けまして初めてのコメントとなります。引続き蔵の作業をやっております。本日1月22日大寒を過ぎた雨の日ですが蔵の表面に土、砂、藁を混ぜて寝かしておいた土を塗っておりました。すでに210ミリのコテも2本つぶれてしまいました。一本は折れて一本は柄が外れてしまい今は三本目を使用しています。荒塗りの状態でこぼこな所は付きがよいのですが昔に塗られていた壁はブラシで水をつけ擦り土を浮かせたところに寝かした土をこすって塗り込みます。乾いたところに塗る時は新しい土が付かず落ちてしまうので前の壁と擦り合わせるためコテに負担が掛かります。雨の日や極端に寒い日は蔵の中で窓を作りました。近くの旧家が解体され多くの資材を手に入れることが出来ました。まずこの窓に使うガラスや大量の敷石と解体で出た材木ももらうことが出来ました。中にはケヤキの大黒柱もあった。夏には完成させたい気持ちです。依頼者の希望で今もすべて一人でやっています。










2014年12月27日土曜日

クリスマス WターキーBBQ 七面鳥の焼き方



日本は肉食文化が浅いというか肉の食べ方をあまり知らない。
アメリカから帰国すると日本のマーケットでは薄肉しか売ってなく
肉食の体になっていた自分にはまったく物足りない感じをいつも受けていた。

道東の別海町で酪農を半年間経験したことがある。
あの時も搾乳はされていたが乳製品の他の文化がまったくなく
バターやヨーグルトなどほかの加工品を作ることはなかった。

チベットのテントの中ではヤクの肉を燻製にし
ミルクはバターにしてバター茶を作り、そしてヒョーというヨーグルトを作っていた。
これは肉食文化が発達しているから出来るのである。

コストコにはアメリカの肉(USDA)がアメリカのサイズで置かれている。
七面鳥(ターキー)はアメリカの感謝祭では先住民にご馳走したという意味で
必ず一年に一回は食すというか家庭で料理される。またクリスマスにも出てきます。
今回はそのターキーの焼き方をここでお教えいたします。

今年の12月21日は二箇所でターキーを二匹焼き沢山の人たちに食べてもらいました。
一つ目は朝から焼き始め蔵のボランティアの方たちにご馳走しまし
もう1つは友達の家で生活サーカスという人たちとのパーティで焼きました。
そこでは他にポークリブ、4枚のアバラ肉とローストビーフ
ターキーの細切れ肉でターキーサンドとローストビーフでタコスも作りました。
こんなに一日中BBQをやったのは初めてだった朝から夜まで。




七面鳥(ターキー)の焼き方

日本のコストコで売られているターキーは7キロ弱で約15ポンド程度のものです。
これはターキーではあまり大きくありません。
大きなものだと21ポンド以上あり10キロほどのものになります。

解凍

冷凍のターキーは解凍するのに常温解凍では丸一日ほど掛かります。
前日に買って一晩置いておく程度ではまだカチカチです。

凍っているターキーでも早く準備するには。
袋から出し水を流しておくと早く解凍できます。
そしてまず股を開き腹の中に入っているネックを取り出します。
そして首のところには皮の中にビニールで包まれた内臓があるので
それも取り出します。

ネックと内臓の袋を取り出すと腹の中の氷を水で流し全体を水洗いします。

ネックでブロスを作る

ネックを水に浸け弱火でブロスを作ります。
この出汁はスタッフィングとグレービーソースに使います。
ここでは味付けなし、薪ストーブで暖めました。




24インチのWeeberグリル 直径600ミリ

日本ではターキーが入るような大きさのオーブンを持っている方は少ないです。
そこで大きな肉を焼くのに必要なものがフタ付きのBBQグリルです。
なかでもこのウィーバー・グリルはフタが高いので10キロのターキーも焼けます。
コストコで13000円ぐらいかな。

このグリルの使いかたをマスターすると大きな肉も中まで料理することが出来ます。

スロークッキングをするにはフタをしてまず火をつけない。
そしてベントの開け閉めによる酸素供給量で温度調節をすると言うことです。

この網には持ち手がありその脇に少しの空きスペースがあります。
炭を左右に寄せてその空きスペースから炭を落とし足してゆきます。
そうるることでターキーを乗せたまま炭を足していくことが出来るのです。
炭が小さくなると少しずつ大きさにもよりますが足してゆけばいいのです。

ターキーを焼く時はターキーの油を取るのでトレーなどを下に引きます。
ここでは瀬戸物の皿を挽き焼きました。









焼きぐわい

アメリカではターキーは嫌いだという方も結構いた。
それは最初に食べた印象が良くなかったからだと思う、美味しくなかったのだ。
その原因のひとつに焼き方がある。

アメリカ在住の日本人のお宅でもホリデーシーズンになると
オーブンでターキーを焼かれるところは多い。
華氏350度で焼く、摂氏にすると176度ほど大きさによってその焼くながさは異なるが
生は怖いといって4時間も5時間も焼くとかすかすになってしまう。
そんなターキーを始めに食べると嫌いになるのだ。

僕が始めて頂いたところは最高に上手な家庭で何年もそこでご馳走になった。
なのでターキーミールは僕の大好物のひとつなのです。

さてターキーの焼きぐわいについてこんな感じです。
6~7キロほどのターキーで3時間ほどで焼きました。
グリルは下と上の空気穴のベントは全開で炭を足しながら焼きます。
フタをしているので火加減が分かりませんがフタを触ると熱さが分かります。
あまり熱くないと焼けた炭を足してください。
数字や温度では分かりにくいので焼けた目安になるのは音です。
「始めちょろちょろ中パッパ赤子泣いてもフタ取るな」
というのは米を炊く時ですが、炊飯器ではなく鍋や飯盒で焚くと
泡や汁が噴出す時があります。
その噴出す水分がとまりしばらくすると少しこげた匂いがします。
米の場合そこで出来上がりとなりますが。
ターキーも同じである程度中まで火が通ると
ジュージューポチョポチョと油が落ちてきます、それが焼きあがまじかの合図です。
火を緩めずにその落ちる油が止まれば焼けてます。
コストコのターキーでそれが大体3時間ぐらいです。
焼ければグリルから出し少し置きます。
骨の辺りに血が残っていても少し置くと血も収まります。



グレービーソースの作り方

ターキーから落ちた油を取ります。
まずネックのブロスとこの油を混ぜ火にかけます。
お玉で混ぜながら水で溶いたコーンスターチを入れます。
まさにうどんの餡かけを作るみたいなものです。
それに塩コショウで味をつければ出来上がりです。
油と分離するので良く混ぜて暖めながらターキーミールにかけます。


  
ターキーの切り方

ターキーの切り方はお客さんへのサーブの仕方ともいえます。
これが出来ないとぐちゃぐちゃになりながら食べる事になり
とっても汚い食べ残しになり無駄が多くなります。

焼きあがっターキーからフタッフィングを出すのは後でも先でもかまいません。
ふくらはぎとモモの部分は赤身と言う部分です。まず足を外します。
皮に切れ目を入れ足を伸ばし関節に包丁を入れ外します。
ふくらはぎとモモが取れたら白身の胸肉をとります。
この胸肉のとり方がポイントなります!

ターキーフィレットを取るにはターキーがあお向けにけになった状態で
胸の下に包丁で深く切れ目を入れます。
そして胸の上の部分からフィレット状に皮付きで切ってゆきます。
そうすると白身のブレス(胸)がフィレット状で取れます。
ある意味ここが一番のターキーミールとも言えます。
しっとりとしたブレスが取れれば最高です!
上の写真参照。

後はもうばらばらに骨の関節ごとに外してゆけばよいのです。


ターキーの食べ方

食べ方は好きなように食べればよいのですがアメリカではこうです。
この大きなターキーを5人程度の家族では一度に食べ切れません。
初日はターキーミール
プレートにターキーのブレスや足を乗せスタッフィングとマッシュポテトなどを添えます。
グレービーソースを全ての食べ物に掛けて食べます。
ターキーの油をいっぱい含んだグレービーはファットですが
アメリカ人はこれが大好きなのです。
油まみれになたお口直しに甘酸っぱい赤いクランベリーをちょっと食べるのです。
缶で売られているクランベリーは日本人には不人気ですが
ターキーミールには欠かせないものだと思っています。
フランスの柿の食べ方に熟じ柿とヨーグルトを混ぜて食べますが
このようなものを添えてもいいかもしれません。
そしてターキーミールをいっぱい食べた後は寝る。寝ます。
そして起きてからケーキを食べます。
二日目はミールかターキーサンドイッチで食べます。


ターキーサンドの作り方

パンは薄めでかりっと焼くのが好きです。
ぼくはブレッドナイフで5枚入りの食パンを半分に薄く切ります。
パンはグリルで焦げめを付けてターキーの細切れを乗せます。
それにマヨネーズをかけて食パンではさみ手で押さえつけてぺしゃんこにして食べます。
お好みでチーズを入れて溶かしても美味しいです。
ぼくはぺしゃんこにして食べるのがすきです。


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以上、ターキーの焼き方でした。
アメリカ建国の際には原住民のインディアンから土地をいただき
そのお礼としてこのターキーミールをご馳走したということで
インディアンにとってはとても皮肉な食べ物になります。
いずれにせよ西洋の食文化、とくに肉の食べ方は日本とは比になりません。
ウチの近くの猟友会の人たちも猪や鹿を食べられていますが
一頭さばいてもせっせと肉を細切れにして鍋で食べられています。
本当の肉食文化のあるところではこういう風には食べないのです。
しかし魚をはじめ海のものの食べ方は日本は進んでいます。
鯨もそうですね。

蔵の筋交いと塗りたての中塗り
蔵のボランティアの人たち

バーベキューリブ



生活サーカスの忘年会 2014 浅田邸にて