2016年8月3日水曜日

奈良市大宮のファサード

久々のブログの投稿になりますほぼ一年ぶりですね。前回ブログの芦屋以来ほぼ毎日そこの会社の輸入建築を建て来ました。フレーミングからボード張、軒周りの外装、フローリング、廻縁、ドア付け、階段仕上げ、ハンドレール、棚付け、ポーチなどのデッキ回りと大工の仕事は全域に渡りやってきましたがまだまだ勉強中です。建築についてはまたアップします。

さて今回は春から建ててきた和歌山の住宅も終わり久しぶりに工場をフル回転させて作った奈良市大宮の美容室のファサードです。シャッターの内側に設置、閉店後はシャッターが閉まるようになっています。扉が連なるようなデザインを望まれほぼ同じサイズのガラス面にしました。扉高は2200と高くドアの枠を安定させるためにフリーズという上部の部分には梁を通しました。内装面には腰壁をつけて高めの巾木で重厚感を持たせています。内装の他の部分とは別物になっていますが店の表面にヨーロッパの雰囲気が出せれたと思います。仕上げはウレタンのエイジング塗装です。汚しのグレイズを明るい黄色目にしたことで金色に見える控え目のエイジングにしました。ヒノキの20年物の乾燥材から製材したもので梁以外はすべて同じ木から出来ています。製作日数約三週間、間際の注文でしたが開店にはなんとか間に合いました。

神戸や横浜などではよく見かけますが奈良ではあまり見かけない本格的なファサードです。






 











2015年4月28日火曜日

ネパール震災の地域 ヒマラヤ山脈の北と南

今回のネパールでの震災の地域はどういうところなのか、そしてどういう地形になっているのかと言うことは手に取るように分かる。なぜなら1987年にそこを自転車で通って来たからだ。上海からチベットを通りヒマラヤを超えてカトマンズ、ポカラ、ブッダガヤ、ベナレス、カルカッタまで自転車とともに旅行をしてきた。

ネパールの首都カトマンズから第二の都市ポカラ間に震源地がある。この間は東西の道に当たり比較的標高の低い場所になる、山すそのしわを走るように小さなアップダウンの繰り返しでポカラに付く。自転車ではこの間に一泊しただけだったが横をつなぐ幹線道路の数が少ないため今は動けない状態にちかい思う。第二の都市ポカラはとっても綺麗な街で湖とアンナプルナの山が見えここから登山やトレッキングをスタートする最高の休息場所だった。

カトマンズに居たときには、エベレストのベースキャンプにも行ってきた。2週間ほどの工程でトレッキンが出来る。山に入るには登山の許可証が要る、これがネパールの大きな外貨を得る手段になるのだ。このトレッキングコースには日本人が経営する宿もあった。道中にはイェティー雪男の頭があるお寺には植村直美の署名が有った。ベースキャンプの地形は毎年変わる。それはベースキャンプは氷河の上にあるので形を変えるのだ。エベレスト・ベースキャンプのひとつ手前の宿がゴラクシップという「カラスの墓場」という地点にある小屋だった。しかしここには大きなヒマラヤのカラスが住み着いている。それはなぜかと言うと登山隊が捨てる残飯を食べに来るからなのだ。

国境は人間が作ったものでありで動物の生息域などには境が無いと言われているがここのネパールと中国の国境は自然、人間、動物と環境が大きく変わる。下の写真は1987年に自転車でチベットからネパールに入るところの写真である、簡単な説明を付けてみてみる。


中国とネパール間の道を中陀行路とも言う。ここは最近ニュースでもよく見る中国との国境の北側にあたるヒマラヤ山脈の北側になる、チベットの最後の峠近くの高地です。このあたりのヒマラヤの北側は海抜が4000メートルを超え森林も草も生えていない酸素の少ないところになる。たまに行路には人がいるがほとんどいない人口密度の極端に少ない地域になる。原住民のチベッタンはヤクの毛で作った靴から服をまとっていた乾燥した地域で年中風呂に入らない。



先に見える雪の山の間がネパールへの最後の5000メートルを越える峠になる。車も無く人にも会わずに雪前の11月に峠まで走った。峠を越えてから分かったことがここが最後の高地であり、あの山向こうは急な斜面になりその先はべったーと海抜の低いインドの大地があるのだ。

話では聞くがこれがインドのプレートがユーラシア大陸に当たり盛り上がって出来たのがヒマラヤ山脈でありここのチベットの高地になるのだ。

しかしこのチベットの高地は青海省から徐々に続きづっと平均海抜3500~4000メートルちかい所をずっと走ってきたがこの先の地理的環境の違いには驚いた。



ここがチベット最後の海抜5000メートルを超える峠になる。5000メートル越えは青海省から3つか4つあった。忘れないのは最初5000メートル超えの青海省のパエンカラサンと言う峠だった。そのときは峠近くで頭が痛く自転車が押せなくなりトラックに載せてもらい近くの小屋まで連れて行ってもらった。それが始めての高山病だった。そこからずっとラサを通りこのチベットの高地を走ってきたがこの大地がすべてがインドのプレーたが押し上げた物だったのかと思うと。言葉には表せないほどの大きな時間と力があり、人間の存在なんてちっぽけなものに感じられる。チベットでは峠には必ずこの小旗にお経の書かれたタルチョがある。


ここがヒマラヤ山脈の下り坂、このとき日が暮れになり気温が下がる。水は凍りマイナス10度くらいではないかと思う。雪が降る前の11月にこの峠を越えることが出来た。


峠を越えてから日がくれまでに人が住む民家があったので泊めさせてもらう。おじさんと同じ部屋で火をたき料理をして休む。このあたりの建築物はこの写真のように石組みで建具枠を付けて作る。エベレストベースキャンプへ行く途中に建築現場があったがこの様に石を積み上げてゆき建具の木枠をはめ込んでいく形で作っていた。極端に木の入手が難しいところの建て方だった。


中国からネパールの国境にむけてヒマラヤ山脈をひたすら下る。周りに見えるや万年雪の山は標高が6000メートル以上だろうがそんなに高く見えない。

中国国境手前の宿場町、ニャラムに一泊して中国を出国した。当時は中国が外国人旅行者に解放されて間が無いので外国人には専用の通貨があった。実際には現地の人民元を闇で交換して使っていたが。何しろここまでに2回公安当局に不法旅行としてつかっまっていたので、出国時に自転車の没収がないようにかなり気をつけて出国したのを覚えている。写真の人のようにかなりの人がこのころは人民服を着ていた。


中国の国境を越えてネパールの入国審査のできるカスタムの小屋まで無国籍の地帯があった。当時はその地帯は両国どちらも手を付けず土砂崩れのままで寸断されていてネパール人のポーターに荷物を担いでもらいネパールに入った。今はトラックも行き来できるラサとカトマンズをつなぐ主要な行路になっているのは間違いない。どんどん下ると森林が見えてくる、温度も上がり酸素が増えてくる。


ネパール国境までの下り道腹にククリというナイフをさしたネパール人にあう。中国の共産国を出るとほっとしたのを覚えている。人民服の公安局員にはかなり気を使っていたのだろう。ここからどんどんくだり海抜600メートルという橋があった。気が付くとそこではセミの声が聞こえていた、そして熱くなりTシャツになったのを覚えている。

ヒマラヤの最後の5000メートルを超える峠から海抜600メートルのセミの聞こえる橋までずっと下り坂だった。国境が無ければ充分一日で下ることが出来る。ここからは平坦なインド大陸がべたーと広がるのだ。ここで驚くことはヒマラヤを境にチベットの平均海抜4000メートル弱の北側と海抜の低いインドの大地が広がる南側とでは大きく環境が変わる。これはまさにインドのプレートがユーラシあ大陸のプレートの下に入り込みユーラシアプレートが盛り上がって出来たのがヒマラヤ山脈ででありチベットの高地になることがはっきりと分かる。現にヒマラヤではアンモナイトなど海の化石が発見される。ネパールの地形は北側の国境にはヒマラヤ山脈の壁が有りカトマンズあたりの中ほどから南側は低いインドの大地がつずくのだ。ヒマラヤ山脈の標高はいまも少しずつ上がっている。今回の地震では大きな被害を受けているが地球創生からの長い年月で考えると起こりうるところで起こった地震であり仕方無い様にも思える。ネパールの北側はヒマラヤからの雪解け水が流れる谷が有り縦に道はあるが横には道が少ない。言ってみると内陸ののリアス式海岸のようで救助にはかなり入りにくい場所になる。この度の震災ではかなり今まで受け継がれてきた人の営みが破壊されたがこのような地域の人たちには震災に強い人間の底力があるはずだ。ネパールの人は日本人に似たところが多くある。地形の関係で多くの民族が存在するがネーパール人は顔も日本人に似ている、そして言葉も多く似ているものがあったのを覚えている。また力強く生活をとり戻してもらいたい。